スナオナシュキ

素直になりたい:30代男性(自営業)

テクノロジーの発展による美意識の変化

時代は常に変化している。世の中には時代の変化を受け入れ、順応に対応する人間もいるし、変化を受け入れずに、古き良きを大事にする人間もいる。私は前者を支持する。後者も悪くはないが、しっかり受け止めて頂きたい事がある。あなた達も意識していない奥底の部分では、考え方を強制的に変化させられている。

 

結論を先に言おう。

 

ウォシュレットが普及した現在と、ウォシュレットの存在しない昔ではアナルに対する美意識が変わっているのだ。

 

私は1986年生まれだが、家にウォシュレットが導入されたのは義務教育も半ばと差し掛かった頃だったと思う。ウォシュレットのなかった幼少時代の私は、アナルに付いたウンコはちゃんと拭き取る子供だった。ただ、完全に拭き取るまではしなかった。

 

だが弁明させて欲しい。

 

理由の一つとして、何度拭いてもうっすらと残る茶色い跡は取れず、最後の方になると紙の使用量とウンコの拭き取れる量の費用対効果が合わない。家の壁が薄かったので、紙巻器がゴロゴロと鳴り響く回数によって紙の使用量は、母に筒抜けだった。紙の使い過ぎは怒られるし、家族の負担にもなると自主的に考慮し、中指に力を込めながら3回程拭いて良しとしていた。それでも白いブリーフにウン筋がうっすらと付くのは、着座する時間が多い義務教育の生活では致し方ないことだと諦めていたものだ。

 

ウン筋の影響もあって、下着を柄物のトランクスにしたのは他の子供より早めだったと自覚している。当時、私は学級委員を任されるような子供だったので、不良が履くようなトランクスを自分が履いて良いものか、いささか抵抗があった。しかし、ウン筋の付いたブリーフを洗う母のことを考えると胸が痛み、ブリーフをトランクスに変更する契約手続きを早めてくれないかと申請した。

 

ここまで私がアナルに付いたウンコを完全には拭き取らない理由を説明した訳だが、ダメ押しでもう1つ理由を提示しておこう。

 

それは、私がまだ幼稚園に通っていた頃に、胃の調子が悪かったのか食べ物の影響かわからないが、とんでもなく堅いウンコと邂逅した事が原因だ。当時の記憶はうっすらしか覚えていないのだが、「あの時の悲鳴は絶対に忘れることはない」と今でも母が話す。

おそらく狭い密室にびっしりと毒虫が敷き詰められ、換気扇からは貞子の長い髪が垂れ下がり、喉元にはクリーチャーの牙が噛み切る寸前のところまで迫っていて、耳元には鼓膜を破るほどの羽虫の音、そしてドアノブにはモジャ公のストラップ。これくらいの恐怖が当時の私を襲ったのだろう。

 

モジャ公のストラップだけは本当にあった。だが特に意味はない。とにかく、とんでもない悲鳴だったそうだ。

 

言葉にすると「あ」が強めの「ぎゃぁぁ」だったと聞いている。

私はケツからダイヤモンドを生成できる特殊能力を身に付けた、と勘違いするほどの硬いウンコにより、幼くして切れ痔を経験する羽目になった。それが、最後までウンコを拭き取れない理由の後押しとなったのだ。あまり、アナルに負担をかけてはいけない。そう、心に刻み込んだ。それは4歳の夏だった。

 

時は流れ、ウォシュレットはトイレの標準装備になっている。いち早く切れ痔を経験した私は、ウォシュレットが世に出回った当時から積極的に使用していた。しっかり水で流せば紙の使用は1回で済む。とても素晴らしいことだ。アナルを拭く紙の色はいつもモノトーン、あるいはグレイッシュである。

 

ただ、最近になって気付いたのだ。人間の身体は複雑にできており、どうしても1発で拭き取れない時もある。ウォシュレットを酷使したとしてもだ。そんな時ふと気付いたのだ。

昔は多少の拭き残しは許容出来ていたのに、今は何故か許容出来ない自分がいる事に。

これはテクノロジーの発展による美意識の変化ではないか、と。

 

今回はアナル限定の事象だが、これからもテクノロジーと美意識の変化という連鎖反応に注目しても面白いのではなかろうか。製作者の意図しないところで、人々の意識は変化しているのかもしれない。テクノロジーは便利だが恐ろしくもある。それは変化してしまう大きな力を持っているからからだ。

本能的に変化を好まない人間は多い。そういう人はまず変化を理解することが大事だと私は思う。そうすれば変化も楽しめると思う。

 

さぁ、皆でテクノロジーを楽しもうじゃないか。